トップページへ


WR0260 庄野潤三『プールサイド小景』新潮社−日常で感じる鬱屈に密かに共感し、ささやかな慰めを見出せるような作品だってもっと読まれても良いのではないだろうか

(1999/11/6)

 文筆業:川辺博之


 未だ混迷の中をさ迷い続けている感のある日本経済ではあるが、新聞ほか各誌を読 むと景気の落ち込みもどうやら底打ちしたようで、今後は少しずつ上向きに転じつつある気配を見せているようである。しかしながら、現実的な感覚からすれば良くなるどころか、むしろ悪くなっている気さえする。どうしてもそのように感じてしまうのは、依然として高い水準にある失業率が原因のひとつにある。

 確か夏ごろだったと思うが、とある経済研究所に勤務している方に話を伺ったことがあった。その方の話に拠れば、日本経済は、アメリカが景気を回復させた時に辿った過程と同じく、労働分配率を低く押さえることをバネに上向きに転じようとしている、ということだった。つまるところ、景気は上向くが、失業率は今後も同じ水準で推移して行くか、さらに悪化する可能性を秘めているという。そして、まるでそれが不吉な予言であったかのように日産の大規模なリストラクチャリングによる人員削減、メガバンク時代の到来とともに、各行が打ち出した人員削減計画などが発表された。

 遅れてきた社会主義者というわけではないけれど、経済的或いは社会的な勝ち組と負け組が明確になってしまうような経済再生の方法は、あまり素直に受け入れることができない。

 「難しい経済学だって、人を幸せにするためにあるんだ」

 以前、こんなコピー(だったと思う)のポスターを見かけたことがあったが、「でも、それってホントかよ?」と皮肉のひとつも言ってみたくなる。それが、ある銀行の宣伝用に作られたものなのだから、尚更だ。

 現在では中間所得層の多い日本も、これからはアメリカのように富裕層と低所得層の境界が明確になり、二極分化が進むことになるのかもしれない。となれば、今後、ますます小市民的ささやかな幸せというものを維持するのは難しくなっていくのだろう。そう思った時、ふと、頭に浮かんだのがこの『プールサイド小景』という作品だった。

 新しくできたプールに張られた水の色、そして女子の水泳選手達が練習をしている風景が電車の窓にふっと流れゆく。それは勤め帰りのサラリーマンの心をささやかに慰める。女子の水泳選手が練習しているプールの端に一つだけ空いているコースでは、ふたりの小学生の男の子が、仲の良い子犬のように泳いでいる。一人の背の高い男が、プールサイドに立ってそれを眺めている。男はこの学校の古い先輩であり、コーチの先生とは顔見知りの仲で、練習の邪魔にならないように息子達に泳ぎを稽古してやっているのだ。

 やがて、白い犬を連れた婦人が迎えにやってきて、家族は一緒に帰ってゆく。とても微笑ましい家族の光景。しかし、どれほど幸せそうに見える家族にも、他人には窺い知ることの出来ない問題を抱えている。男は会社の金を使い込み、馘首にされてしまったのだ。こうして子ども達をプールに通わせながらも、先の見えない状況に不安を感じながら日々を送っている。

 夫婦の間に暗い影を落とすこの事実、沈黙になりがちになる状況の下で絶えて久しかった夫婦の会話がぽつりぽつりと交わされる。男がよく通ったバーの話、そして、勤め人が抱える鬱屈や不安の話。

 そうした話を夫から聞いているうちに、妻は夫について何も知らなかったことに気づく。そして、元々の不幸の始まりは夫が毎朝遠い勤め先に出て行き、夜になるとすっかり消耗して帰って来るという生活にあるのではないかと考え始める。朝起きて、夫がそのまま家にずっと一日いるという生活は、最初のうち妻を当惑させた。だが次第に、夫が毎日外に出て行かないでも家族が生活していけたら良いのに、と思うようになる。

 しかし、そういうわけにはいかない。男は仕事を探すために、或いは出勤するふりを装う為に外へ出ていくことになる。妻は、夫が知った人に出会うことを恐れながら雑踏の中を歩く姿を想う。しかし、そのイメージが不意に崩れ、どこか見知らぬアパートの階段をそっと昇っていく男の姿が妻の頭に浮かび上がる。この想像が家にいる執拗に妻を襲う。

(危い!そこへ行ってはいや。いやよ、いやよ、いやよ……)
(いけないわ。そこへ行ったら、おしまいよ。おしまいよ)

 夫が帰ってきてくれることを望みながら、じっと家で待っている。勤め帰りの乗客達の目にはいつもの女子選手達のいない、ひっそりと静まり返ったプールが映っている。

 庄野潤三は、抑制されたクールな文章で物語を紡ぎ出す。くどくどとした説明を抜きにして状況だけをぽんと描き出す。初めはあまり強烈なインパクトは受けない。が、それはボディーブローのように後からじわりじわりと効いてくる。

 鬱屈を抱えた男が会社の金を使い込んで馘首されてしまうという設定は(その鬱屈は理解できないわけではないけれど)、さすがに自業自得と言えなくもない。しかし、これをリストラ社員というように置き換えてみたりしてみると、男が語る鬱屈や、生活の不安がよりいっそう切実なものとして感じられるのではないだろうか。

《 四十にもなって勤め先を放り出された人間は、いったいどうして自家の体裁を整えることが出来るのか。いったい、この人生の帳尻をどんなにして合わせるのか。それは、考えるより先に、絶望的にならざるを得ない問題だ。…》

《 会社へ入って来る時の顔を見てごらん。晴れやかな、充足した顔をしている人間は、それは幸福だ。その人間は祝福されていい。だが、大部分の者はそうではない。…(中略)…彼らは何に怯えているのだろう。特定の人間に対してだろうか。社長とか部長とか課長とか、そう云う上位の監督者に対して怯えているのだろうか。それも、ある。だが、それだけではない。それらは、一つの要素にしか過ぎないのだ。その証拠に、当の部長や課長にしたところで、入口の戸を押し開けて入って来る瞬間、怯えていない者はない。》

 このあたりの心情描写などは、ぐっと迫って来るものがある。たとえ凡庸にしか見えないような生活であっても、それを維持し、守り抜いていくだけでも困難なことなのだ。そして、それはふとした拍子に呆気なく崩れてしまう脆さを抱えていることがしみじみと伝わってくる。

 この作品は新潮文庫『プールサイド小景・静物』という短編集に収められている。この短編集でもうひとつ目を惹くのは、登場する女性たちである。ここでは詳しく述べることは止めるが、描かれる女性たちはなんとも可愛らしいというかいじらしい。もっとはっきりした物言いや態度を示す今の女性と比べると、少しもどかしい感じもする。それは、時代の差なのかもしれない。しかし、時代が変わっても、抱え込む逼塞感は同じようなものに感じられる。男にせよ女にせよ、結局のところ、人の生活というものはスタイルが変わっただけで、本質的には何も変わってはいないのではないだろうかと思う。

 今の時代は、物事に対して異議申立てをすることは難しい。仮に『異邦人』的に「太陽のせいだ!」と言ってみたところで「そんなこと言ったところでしょうがないだろう!誰だって我慢して頑張っているんだ!」と逆に非難されるのがおちである。そういった異議申立ては、今ではほとんど無意味であることを誰もが理解しているのだ。だからこそ素直に状況を受け入れ、『変身』のグレゴール・ザムザ的に、虫になっても必死に仕事へ赴こうとする態度とその努力が奨励されるのだろう。こういった閉塞的な状況にあっては、むしろ破天荒で現実を打破してしまうようなパワーを持った作品が望まれるのかもしれない。

 しかし、そういった作品ばかりでなく、日常で感じる鬱屈に密かに共感し、ささやかな慰めを見出せるような作品だってもっと読まれても良いのではないかと思う。静かな作品は、とてもささやかではあるけれど、ある確かさを持っていつまでも燃え続け、しっかりと人の心を捉えていく。

 最後に。

 活字文化の衰退が囁かれる中で、我々に感動を与えてくれる作品を創り続けようと不断の努力を重ねる、すべての作家に敬意を表したい。

 優れた作家のために。
 そして、
 人知れず去っていった作家のために。

(1999/11/1 原稿作成)

庄野潤三『プールサイド小景』新潮社 ISBN−4-10-113901-6 新潮文庫 438円


川辺さんに書評をして欲しい作家の方は下記までメールをお出し下さい。
川辺博之E-mail:bwv147@d2.dion.ne.jp


 文筆業:川辺博之