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【サディズム・マゾヒズム】
さて、性行為の変形行為として、サディズム及びマゾヒズムを考えてみよう。いわゆるSMである。サディズム sadism というのは、フランスの貴族であったサドに由来するもので、異性の相手を虐げることによって性的快感を得ることである。日本語では、色情加害狂とか虐待淫乱症とか呼ばれる。しかし、日本語で表現すると、何やらエッチな度合いが増すように感じてしまうのは私一人であろうか。その様なことがあるためであろう、殆ど使われず、「サド」や「SM」などの言葉が通用しているようだ。
また、マゾヒズム(masochismのドイツ語読み) というのは、異性の相手から身体的・精神的な苦痛を受けることによって性的満足を得ることで、オーストリアの作家ザッヘル・マゾッホの描く人物がその典型的なものであるとし、精神病学者エビングが命名したものだとされている。
ここで、サディズムとマゾヒズムをまとめて取り上げたのは、両者は、基本的には、同じものであると考えられるからである。これらを考えるに際しては、女性的男性と男性的女性の性衝動が基本となる。それらの性衝動とは、
<女性的男性の性衝動>
(1)女になりたい。
(2)女の裸を見たい。
(3)女を独占し自由にしたい。
であり、
<男性的女性の性衝動>
(1)男になりたい。
(2)男を独占し自由にしたい。
というものであった。両人とも、互いに反対の「性」である、「女」になりたい、あるいは「男」になりたい、という心理がある。しかし、彼/彼女らの現実の肉体は、それぞれれっきとした「男」であり「女」であるわけなので、ここに心理的葛藤が生じているわけだ。
女性的男性は、射精して性的快感を覚えるたびに、「男」であることを実感させられて願望はくだかれてしまう。男性的女性は、「男」のように行動しようとしても、例えば「男」の典型的な行動は、性交における性器の挿入であるが、「女」であることを実感させられてしまい、やはり願望はくだかれてしまう。こんな心理的葛藤があるわけだ。ここで、女性的男性と男性的女性の生い立ちが、それぞれ、
<サディストの家庭環境>
(1)女性的男性は、母親に反感・憎しみを感じ、
(2)男性的女性は、父親に反感・憎しみを感じる
というものであったとしよう。
女性的男性は「女になりたい」という気持ちを持っているわけであるが、現実の生理的現象(射精)によって「男であること」を実感させられて願望がくじけるが、そのたびに「女になりたい」という気持ちもまたくじけさせられる原因である。仮に本当に「女」になるにしても、モデルである母親には反感・憎しみを抱いているので、本気になることができない、という状況になる。この様な状況では、「女になりたい」という衝動そのものに反感・憎しみが向けられるようになると考えられる。
同様の心理過程で、男性的女性が「男になりたい」と思うけれども、現実の生理的現象(月経)によって「女であること」を実感させられ、願望がくじけるたびに、「男になりたい」という衝動そのものに反感・憎しみを覚えるようになると考えられる。
ここで、次のような性行為における人間の基本的な性質を導入しよう。
<性行為時における基本心理>
人間は、自分の鼻水や涎など、それらが自分の身体に付着している間は「汚い」とは感ぜず、それらを飲み込むことに、人目を気にしなければ、問題はない。ところが、いったん自分から離れ落ちた涎や鼻水を、もう一度自分の身体に吸い戻すことには、多大な心理的抵抗と不潔感を覚える。また、人が使った歯ブラシやお箸も、それを使うには心理的抵抗を覚える。ということは、人間は、自分と物理的に一体になっているモノは「汚い」とは認識せず、物理的に分離していると、それが例え自分のモノであっても「汚い」と認識するという性質を持つ、ということだ。
ところで、性行為のための男女性器は、醒めた目から見れば「汚いモノ」の代表である排泄物を排泄する排泄器と兼用になっているか、またはその近傍に存在する。この汚いモノ及び汚いモノの近傍にある性器は、性的に興奮している状態にあっては、汚いどころか「愛おしいモノ」になってしまう。つまり、人は、平常状態における心理と、性的に興奮している状態における心理は、その価値観が逆転する、という現象を示す動物である。
性的に興奮している状態において、汚いモノを汚いと認識せず「愛おしいモノ」と認識するのは、それは相手と心理的に一体化している証拠であると考えられる。また性行為を通して物理的にも一体化する行為であると考えることができる。「一体化」ということは「甘え」の極致である。
「甘え」とは「自分でやればできることではあるが、あえて相手に頼むこと」である。これは相手を自分の身体の一部とみなす行為である。相手の全てを自分と一体化したと認識(妄想?)しうる状態においては、すなわち、性交状態においては、相手との間に「汚いモノ」は存在しなくなるのである。その意味において、性交は甘えの極致である。人間の基本的欲求の全てを同時に充足させることができる行為なのである。
以上のことを考慮すれば、極端なケースとしてスカトロが存在するが、これは平常事態において糞を喰らって生活できる人のことを言うのではない。性行為(性的興奮)状態においてにみ、存在しうることである。これは母子関係における「甘え」が極度に不足した人に発生すると考えられる現象である。
さて、女性的男性が自分自身について感じる「女になりたい」ということに対する反感・憎しみは、性行為の相手である「女」に対する反感・憎しみとして投影されるであろう。同様にして、男性的女性が自分自身について感じる「男になりたい」ということに対する反感・憎しみは、性行為の相手である現実の「男」に対する反感・憎しみとして投影されるであろう。
この様に、反感・憎しみを覚えさせる性行為イタリアの相手が、さらに自分のプライドを傷つけるような存在であるとき、例えば、女性的男性が「女でありたい」と願いはするものの、相手は正真正銘の「女」であり、かつ「女らしい」と彼の目に映るときなどであるが、ここに嫉妬が生じる。こんなふうにして「嫉妬」が生じれば、相手の地位を貶めて、自分の膝元に屈服させたいとして、種々の虐待的行動をとるようになると考えられるのである。
これがサディズムであり、この様な行動をとる人のことをサディストというのである。つまるところ、
<サディズムの本質>
サディズムというのは、人間の肉体の性と精神の性が異なっているとき、この違いから生じる心理的葛藤を軽減するために、肉体の性(誰の目にも明らかな性、セックス)が、精神の性(自分個人の願望としての性、ジェンダー)を抑圧しようとする行為である。すなわち、サディズムとは、傍目には、他者を虐待しているように映るが、その内実は、性行為時には相手と心理的にも一体であることからして、自分自身を虐待している行為であり、マゾヒズムと表裏一体なのである。
ということになる。
ここで、なぜ肉体の性(セックス)が精神の性(ジェンダー)を抑圧しようとするのかと言えば、肉体の性は、自他共に客観的に認識できることであり、誤魔化しようのない厳然としたものであるのに対し、精神の性は、いくらでも誤魔化しが利くものだからであると考えられる。逆に、精神の性(ジェンダー)が肉体の性(セックス)を抑圧してしまう現象は「性転換手術」であることは言うまでもないであろう。
(つづく)
(2001/6 原稿作成)
又吉正治
昭和22年 熊本生まれ
S45 工学士(電気工学、静岡大学)
S55 医学博士(医用生体工学、東京大学)
H07 メリーランド大学大学院
家族療法研究所主宰
メリ−ランド大学アジア校非常勤講師
故・荻野恒一博士の晩年最後の弟子として
文化精神医学・精神分析を学び、現在は、
日本文化に基づく心理学理論の体系化と
実生活に活かせる心理学の構築に専念中。
連絡先
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