第51話 ロシア革命
1917年(大正6)2月、「プロレタリア革命」がロシア帝国に起こった。
時の皇帝ニコライ2世は皇太子時代に日本に軍艦で威圧するために訪れ、「大津事件」
で負傷した人物である。
皇帝(ツァーリ)となったものの定見がなく、政府の人事は常に皇后の心をとりこにした
怪僧ラスプーチンの意向によって左右されていた。
平時ならともかく、1914年からはじまった第1次世界大戦ではオーストリア・ドイ
ツ軍に惨敗し、兵員の犠牲は400万人に及んだ。
ついに2月23日、首都ペトログラードでは9万人の労働者がストライキを起こし、
「パンをよこせ」と叫んで市庁舎に押し寄せ、数軒のパン屋が襲撃された。
これが革命の発端であった。
次の日のデモ隊は「専制政治を倒せ」「戦争反対」の声が大きくなった。
鎮圧する軍隊までもデモ隊に合流し、全国に広がっていった。
1905年の第1次ロシア革命のときにできたソビエト(労兵協議会)が各地に成立し、
2月28日、300年続いたロマノフ王朝は倒れ、ニコライ2世は退位した。
このときの思想のよりどころが19世紀末の「マルクス主義」の『共産党宣言』であ
る。そして当初の混乱を革命政府の樹立までまとめあげたのがレーニンである。
10月革命で人民委員会議を成立させ(人民委員会議議長レーニン、外務人民委員トロ
ツキー、民族人民委員スターリン)、重要産業(銀行、鉄道)の国有化、地主の土地の
没収と農民への分配、民族自決宣言、外債の破棄などの根幹政策を決定した。
実はロシア革命はユダヤ人によって成し遂げられたのである。
レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。
レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。
第1次大戦は続いていたので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。
10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループがニュー
ヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツ
キーのグループを支援していた。
ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めてい
た。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、
あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。
そこでロシア在住の150万人のユダヤ教徒との戦いが起こった。
レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。
革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。
ユダヤ人はまず皇帝ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。革命の翌1918年
(大正7)7月、ウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフスク)のある家の
地下室で、皇帝とその家族をすべて銃殺に処した。
そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は
暗殺された、国家は破壊された」と書かれていた。
次に貴族を殺したが、ほとんどの貴族はすでに国外に逃れていた。
そしてとどめはロシア正教会のほとんどを破壊した。ただし、シナゴーグ(ユダヤ教会)
だけは無傷であった。
共産主義者にとっては「宗教はアヘン」である。
最後に農民を洗脳するために各地にコルホーズ(集団農場)やソホーズ(国営農場)
をつくっていった。その結果、ロシアの農業システムがすべて破壊されたのである。
レーニンの死後あとを継いだスターリンも実態はスターリンの片腕といわれたユダヤ
人、ラーザリ・カガノビッチに操られていた。
1921年(大正10)7月「中国共産党」ができた。
中央委員長に陳独秀が就任し、長沙代表に若き日の毛沢東もいる。
レーニンは秘書マーリンを結成大会に出席させるためシナへ派遣した。
そのとき孫文に会い、ソビエトロシアの経営と現状を説明した。
いつまでたっても所詮広東の地方政権のトップでしかない孫文の不満はこのとき、悪魔
に心を売ってしまった。
「労働者と農民による平等の社会を作る」というスローガンは実際とはかけ離れたも
のであったが、孫文には魅惑的に聞こえた。
圧倒的多数の労働者と農民の支援欲しさに、小ブルジョアジーと知識階級と軍閥を切り
捨てようとした。それはこれまで孫文を経済的に支えてきた日本の有志や華僑たちへの
裏切り行為である。
「隣の庭」は美しく見えるものだ。
革命によるソ連経済が疲労の極にあったことなど知るよしもなかった。
四千年の中国の歴史は高度な文化を生み育ててきたのだ。
それを抹殺する共産思想に組するのは文化人として許されないことである。
人間が本来美しいものに持つ憧れは正統な本性である。
共産主義は美女を見てよろこべば「精神の堕落である」と言うし、美しい細工物を
ほめると「贅沢だ」と言う。
労働者の着る作業着を「美しい」と認めさせ、思わず手を合わす自愛に満ちた菩薩像を
「悪魔の化身」であると決めつけ破壊する。
まったく人間性の完全否定で、権力者のロボットになることを強要されるだけである。
そもそもこの世の中に完全な平等などありえない。
人は劣等感を持つからこそ向上心に目覚め努力する。
共産主義が人間の悪性を無限に引き出し、人間性を低下させることは今の社会では実証
済みである。
「告発」と「闘争」と「サボタージュ」は一握りの権力者に奉仕するための制度である。
孫文がソ連の力を利用して北京政府を倒し、満洲、蒙古をも勢力に入れた統一政権を
夢見たのであるが、ソ連の思惑は自国の命令どおりに動く、出来たての中国共産党の
組織拡大を助けることだけしか頭にない。
さっそく孫文がつくった国民党に続々と中国共産党のメンバーが入ってきた。
そして国民党の主要ポストに就いたことが、のちに大きな禍いとなるのである。
孫文の下には汪兆銘と蒋介石がいた。
汪兆銘は孫文に対して盲目的なほど忠実であった。これは彼の性格にも起因するが、
とても素直で純粋な心を持つ彼の辞書に「裏切り」という文字はない。
汪兆銘は孫文の心をそのまま映している。
「連露、容共の政策は時代と情勢によって変化する便宜的なものである」と。
そのころの孫文は四方を軍閥に囲まれ、帝国主義諸国の脅威にさらされて孤立無援の
状態であったので、差し伸べられた援助の手には、たとえ少し怪しいと思ってもすがり
つきたい気持ちであった。
少しは共産主義に疑問を持っても、まず自分の国民党が大きくなるためには、共産主義
に妥協させようと思った。
中国共産党がまだ未成熟であるから自分の力でコントロールできると思い込んだところ
に最大の誤算があった。
一度食らいついたら離さない共産党の恐ろしさに気づいていなかった。
蒋介石も当初は孫文の意向に沿って共産党との合体に同意していた。
1923年(大正12)8月5日、上海でソ連代表マリーンと会見した孫文の意向を受け、
「孫逸仙博士代表団」の一員としてソ連を訪問した。
そうして実際にソ連を目で見てみると、ソ連の政治組織が専制的で恐怖政治であり、
国民党が目指す「三民主義」とはとても相容れないものだと痛感した。
ソ連自体が血で血を洗う権力闘争に明け暮れており、中国共産党に対しても下部組織
として一瞥するのみで、真剣に中国人民のことを考えているとは到底思えない。
中国のことをソ連は何も知らない。
帰国して蒋介石は孫文に率直に感想を述べたが、孫文は蒋介石に取り越し苦労だと言う。
実は孫文は持病の肝臓が悪化しており、このころから身体の不調を訴えている。
それでもソ連との提携で孫文の地位は北京政府にとっても注視すべき存在となった。
1924年(大正13)11月、段祺瑞が臨時執政として混乱した北京を収拾した。
孫文はここぞとばかりに段祺瑞に国民会議の開催を求め、これを無視できない段祺瑞も
孫文を北京へ招聘した。
北京に入る前に孫文は張作霖と会談し、意気揚々としていた。
これまで自分を無視してきた北の大物たちにやっと自分の存在感を示せたのである。
しかし、体調悪化し、翌年1月26日、北京のロックフェラー病院で肝臓の手術を受け
たが、すでに遅かった。
汪兆銘は孫文の長子、孫科、夫人宋慶齢の弟・宋子文、慶齢の姉の夫・孔祥煕(こう
しょうき)とともに病室に入り遺言を求めた。
自分の遺志を述べる体力もない孫文のために汪兆銘はすでに自分が作成していた孫文
の遺言を孫文に聞かせると、孫文は満足して「大賛成である」と言った。
そして3月12日午前8時30分、孫文は亡くなった。
1922年(大正11)日本共産党が結成された。
彼らがソ連の支援を受け続けるために「忠実な犬」となったことは戦後の日本の「影の
主役」となった。
私は「シベリア決死行」(アルファポリス社刊)にも書いたが、シベリアでの80万人
以上の拉致された日本人の悲惨な実態を見よ。
共産思想の洗脳によって生まれた共産主義者が日教組として日本を否定する教育を純
真な子供たちに教え込んだことは最大の罪悪である。
現代の日本の病根がここにある。
中国の混乱は孫文の死後、共産党との戦いに明け暮れることになる。
時の日本政府はこれを考慮して軍部の進出を抑さえ、蒋介石を助けるべきであった。
(つづく)
(2005 原稿作成)
歴史研究家:岡崎溪子
岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/
「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社)
『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)
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