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WR2325 日中戦争の問題点を検証する(第86話 真珠湾の謎) -ルーズベルト大統領から「日本軍が先制攻撃してくるまではこちら側から攻撃してはならない」という伝達が真珠湾を母港とする全艦に対してなされていた。こうしてアメリカは日本に先制攻撃させるため、12月7日の真珠湾攻撃を察知しながら 「途中で日本艦隊を見失った」と述べている。しかし、真珠湾以外ではすべて暗号も無線も解読しているのであるから、広い太平洋の障害物のない海域で大艦隊を見失うことはありえないのである。

(2006/9/15)

歴史研究家:岡崎溪子



                   第86話 真珠湾の謎

1941年11月26日、ハルノートが示した最終案は、 
1、満洲国を含む支那大陸、および仏印から軍隊、警察の全面撤退。
2、大陸におけるすべての権益の放棄。
3、三国同盟の廃棄。
である。これには野村、来栖両大使も唖然とした。 これではまるで戦わずしてアメリカに降伏せよと言っているのも同じだ、陸軍も海軍もこれでは納得するはずがないのだ。 外相・東郷茂徳と蔵相・賀屋興宣は失望した。 これまでの交渉では三国同盟から抜けて蒋介石政権と汪兆銘政権を合体させることが条件であったからである。

しかし、東条首相は『やっと戦争する理由ができた。これは自衛戦争だ』とにんまりしていた。 東条は近衛内閣の陸相の座に着くと参謀本部に命じて数々の演習を軍にやらせていた。 アメリカは真珠湾作戦で山本五十六にすでに準備をさせている。 アメリカのアジアの拠点はフィリピンであるから当然ここにも奇襲をかける。 イギリスに対しては以前から蒋介石に金銭の支援を送り続ける経済の都「香港」である。 シンガポールはドイツからの要望であるから「三国同盟」のよしみで攻めねばならない。 台湾軍に南方作戦の研究部を作って熱帯での戦争に関しては作戦指南書まで作っている。 昭和16年の3月には上海から佐世保攻略大演習の実施、6月には海南島一周1000 キロ演習を済ませている。
せっかく仏印が日本の手の内にあるのだからまずタイに渡り、マレー半島を1000キロ北から南下すれば、 シンガポールは簡単に落せる。 そのための仏印なのだ。 これらを同日に攻撃してこそ、米・英との戦いのさきがけとなるのだ。 おまけで揚子江に浮かぶ両国の軍艦も沈めてやろう。 日本人をバカにしているアメリカ、イギリスに思い知らせてやる! こうして着々と開戦に向けて準備していた。

しかし、冷静にアメリカと日本の国力を考えれば、海軍の米内たちが戦争をすれば「必ず敗ける」と 言明していたことが正しい。 東条内閣成立後、企画院によって国力判断が行われた。 企画院総裁は陸軍出身の鈴木貞一だった。 鈴木は1941年8月時点では、「もし戦争が勃発し、蘭印の石油産地を占領しても、必ず破壊されるので、 石油の入手は困難」と報告していたが、 11月5日の御前会議では、南方作戦の実施で得られる量と国内の貯油をあわせると、石油は「辛うじて自給態勢を保持し得る」との判断を示した。 そして、開戦せずに「現状をもって進むことは国力の物的部面の増強のみみても頗る不利」と説明した。 この判断は、陸海軍によるつじつまあわせの数字に基づいたもので、開戦決定を後押しする役割を果たした。

ハルノートに「満洲国からの軍隊、警察の撤退」といっても満洲国を否認するとは言っていない。 ということは、満洲国の行政にはなんら影響はないのである。 日本人の軍人や警察がいなくなっても、「五族協和」を国是としているのだから日本人の官吏が 指導していくことになんら変わらないのだ。 ここはいったん退いて「臥薪嘗胆」富国に勤め、アメリカに負けない産業を発展させる ことが賢明である。 石原莞爾ならあっさりとこの条件を飲んだだろう。

国際社会がすでに満洲国を承認しているのであるから、このような過酷な条件をのんだ 日本に対して 同情が集まるのは当然である。 その後の外交で変更することは可能だ。 この時点で日本は世界からあまりにも嫌われていた。 アメリカ人の目には、支那人はキリスト教の信仰と民主主義を喜んで受け入れようとしているというふうに映っていた。 蒋介石のアメリカでの一般的なイメージは、支那人をアメリカスタイルに導く勇敢な、英雄的な キリスト教信者だと思い込んでいたのである。 浙江財閥との癒着で賄賂が軍隊まで侵食し、民主的な議会も存在せず、無秩序の烏合の衆が 無尽蔵に住んでいる実態をアメリカに体験させるべきであった。

ハルノートの試案はハル国務長官ではなく、ハリー・ホワイト財務次官補が作成したが、 彼はのちに共産主義者でソ連のスパイ活動をしていたことが明らかになり、謎の自殺を遂げる。 ルーズベルトの周辺にも共産主義者が多く、政治の中枢を占めていた。 日本は共産党を許さないので、なんとしてでも戦争させて、敗北させる必要があったのだ。

1941年9月6日の御前会議で、対米戦は避けられないものとして決定された。 御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の 短歌を詠み上げた。 「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風の 立ちさわぐらん」 「戦争反対」の意思を明治天皇の歌に託して明言したのである。 近衛首相は昭和天皇が戦争反対だと知ると、一応は閣議を開いて外交重視のポーズをとったが、 日米交渉は陸軍の強硬派が支那からの撤退に反対して座礁に乗り上げ、進展しない。

近衛が内閣を放り出したあと、10月18日、戦争大好き人間の東条が首相につくと、海軍大臣に海軍きってのタカ派・嶋田繁太郎大将を据えた。 嶋田の後ろには戦争推進派の伏見宮がついていた。 以後、一気に戦争へ突進する。

南方作戦は昭和16年11月10日、南方総軍司令官・寺内寿一大将と連合艦隊司令長官・ 山本五十六大将が 青山の陸軍大学で密談して決定した。 そこで作成した実施要綱を各軍司令官と幕僚に加えて、南方担当の第2艦隊の首脳部が 岩国の 海軍航空基地で会合を持ち、作戦を決定した。 12月1日の御前会議で、宣戦布告は攻撃の30分以上前にすべきことが決定される。

戦争は始めるのは簡単だが、やめるのが難しい。支那事変がそれを示している。 ではどうやって大東亜戦争を終結させる予定なのか? まずインド洋を制圧し、イギリスを資源不足に陥らせる。 そのうちにドイツがイギリス本土に上陸するので、イギリスは脱落する。 するとアメリカは仲間を失って戦意喪失するだろう。 そのとき、南米諸国、スウェーデン、ポルトガル、ローマ法王庁に仲裁を頼んで、戦争終結させる。 という、まことに日本に都合のよいシナリオである。 どの国も仲裁を引き受けるなどとは言わないし、キリスト教国でもない日本のために法王庁が 乗り出すとも思えない。 こんな甘い見通しで大戦争をやらかそうというのだから軍部の驕りは甚だしい。

1941年(昭和16)12月8日、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将率いる日本海軍はハワイの 真珠湾を攻撃した。 真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊と航空基地に対して行った奇襲攻撃は成功し、 アメリカ側の 被害は甚大であった。 第1次攻撃部隊は淵田美津雄中佐、第2次攻撃部隊は島崎重和少佐の2班に分かれて攻撃した。 『宣戦布告書のない卑劣な攻撃』であるとルーズベルト大統領が日本を非難、以後アメリカ国民は 『リメンバー・パールハーバー』を合言葉に日本との戦争に団結して立ち上がった。 これまでの歴史は日本人に「闇討ちの卑怯者」の烙印を押してきたが、果たして本当に そうなのだろうか? 日米双方に大いに疑問がある。その中でも以下の謎は重大である。
1、なぜ山本五十六はわざわざハワイまで遠征する作戦を主張したのか?
2、日本の「宣戦布告書」はなぜ開戦前にアメリカに届いていなかったのか?
3、日本軍の暗号をほぼ完璧なまでに解読していたアメリカ軍がハワイ作戦だけなぜ気が付かなかったのか?

山本五十六は米内光政海軍大臣の下、井上成美(いのうえしげよし)軍務局長とともに「日独伊三国同盟」に ずっと反対してきた。 山本五十六は2度のアメリカ留学で、日米開戦ともなればとても日本の国力ではアメリカには勝てないと 認識していたのである。 その山本が連合艦隊司令長官になると近衛首相に「日本とアメリカが戦ったら日本は勝てません。 1年くらいなら暴れて見せます」 と啖呵を切ったのは捨て鉢な意見であり、わざわざハワイまで出向いて奇襲作戦をする のは戦略家として愚である。
大本営でもハワイに空母六隻もの兵力を派遣することはないという反対意見が多かった。 空母赤城、飛龍、蒼龍は途中で燃料補給を受けなければハワイまで到達できないのである。 ようやく作戦の実施が決定され承認されたのは、昭和16年12月1日、作戦予定日の1週間前のことで、 第一航空艦隊など作戦に参加する艦隊はすでにハワイを目指して航行中だった。 有無を言わせぬ強引なやりかたである。 奇襲を受けて立ち上がったアメリカが簡単に和平を望むとも思えず、徹底的な日本殲滅を考える 理論の根拠を与えた。

山本五十六が真珠湾奇襲作戦を計画したのは1940年の秋に始まる。 及川古志郎が海軍大臣になると、山本を海軍大将に昇進させ連合艦隊の指揮を任じた。 及川と山本は海軍省で密議を重ね、米英と開戦になったときには、真珠湾を空から奇襲 することで、 意見が一致した。 1941年の1月には山本の頭の中には作戦ができあがり、主要幕僚を任命して、戦術の 細部の検討をさせている。 しかし、山本の信頼する将校の中からペルーの日本駐在公使シュライバーに情報が漏れたのを 東京のアメリカ大使館の職員がキャッチした。 グルー大使は暗号化して国務省に送った。 1月27日、電報を読んだハル国務長官はそれまで複数の情報筋から「真珠湾奇襲」に関する噂を聞いてはいたが、 これで確信し、陸軍と海軍情報部に電報の写しを配布した。

ハワイ開戦は日本側の勝利だと思うのは短絡的であり、アメリカはたいした被害を受けていない。 戦艦はアリゾナとオクラホマが撃沈されただけで、ネヴァダ、ペンシルバニア、テネシー、 カリフォルニア、メリーランド、ウエストバージニア各艦は修理されて艦隊復帰している。 真珠湾内に貯蔵されていた500万バレルの石油タンクも爆破せず、海軍工廠を無傷に しておいたことは、 その後のアメリカ側の復旧に支障をきたさなかった。 せめてこれらを攻撃しておればハワイからアメリカ本土に艦隊は撤退し、以後2年間は アジアに アメリカは大規模な攻撃はできなかったであろう。 すると日本は余裕を持って戦闘体制を整えることができた。
大正3年5月には横須賀鎮守府副官兼参謀をつとめている山本が、戦艦は修復すれば 使えることを 知らなかったとは言わせない。 修復する工場を爆破しなければ意味がないことは明白である。 南雲忠一中将は空母部隊勤務の経験がないのに第一航空艦隊司令長官に任命された。 参謀任せで自主的に指示することはなかった。 第二航空戦隊司令官の山口多門少将が第二次攻撃を促す信号を旗艦「赤城」に発したが、 南雲と草鹿龍之介、源田実はこれを無視した。 渕田美津雄中佐も工廠、修理施設への攻撃を意見具申したが、大戦果に浮かれる幕僚たちからは無視された。

日本軍は機動部隊360機の艦載機(零式艦上戦闘機78機、九九式艦上爆撃機129機、 九七式艦上攻撃機143機)を持ちながら艦隊を襲撃すると満足して、午後1時には 全戦闘機は空母に帰還し、 オアフ島北方海域に逃走していた。
その帰路にミッドウェイ島の米軍基地を攻撃すべきであったが、素通りした。 貴重な燃料を使っているのだから当然ハワイまで出向いて帰路の戦略がないのは 上策とはいえない。 ましてや日本側の被害が少なかったことからも、初期の奇襲が大切というのなら当然 ミッドウェイ島の攻撃作戦がなくては真珠湾攻撃の値打ちが半減する。
実は当初はハワイの帰りにミッドウェイ島を攻撃するつもりであった。 12月9日、連合艦隊司令部は帰途にある機動部隊にミッドウェイ基地の攻撃を命令した。 「機動部隊は帰路情況の許す限りミッドウェイ島を空襲、之が再度使用不可能ならしむる如く徹底的撃破すべし」 電報を受け取った機動部隊は真珠湾の奇襲成功に酔いしれており、やる気がなかった。

「必ずしもミッドウェイを叩く必要もなく、また叩いてみたところで土地を叩くようなものである。 また一面つまらぬ感情の点からいっても、相手の横綱を破った関取に、帰りに ちょっと大根を買って来いというようなものだ」 つまり軍艦相手に戦うならやるが、基地や施設を攻撃するのはつまらんというのである。 で、 結局攻撃しなかった。 バカな話である。

ハワイ時間12月7日、午前7時45分から始まった戦いは2時間あまりで終わった。 山本提督は南雲司令官になぜ次の攻撃の指示を与えなかったのか? 広島湾柱島泊地にいた連合艦隊旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官が その必要性を認めていないのである。 参謀らは第二次攻撃を主張したが、山本は現場の指揮に任せると言う。 「やる者は言われなくともやる。やらない者は遠くから尻を叩いてもやらないだろう、 南雲はやらないだろう」とそばにいた参謀らに語った。 つまり第二次攻撃中止を追認したのである。
この原因は「軍令承行令」による序列人事制度にある。 そもそも機動部隊の司令長官人事の候補は二人あった。 一人は南雲であり、一人が小沢治三郎中将である。 小沢は南雲の一期下だが、その俊秀、勇猛ぶりは知れ渡っており、しかも航空畑を歩んできた。 なにより機動部隊の構想自体、彼が発案したものである。 山本長官は小沢に機動部隊を任せたかったが、ここで「軍令承行令」が立ちはだかった。 小沢は中将になってまだ半年足らず。昇進後1年を経ていない中将は艦隊司令長官にはなれないという 内規があった。 山本はしぶしぶ小沢案をひっこめ、中央からの南雲案に同意した。 これ以上は能力のない南雲に無理をさせて失敗するのではないかと、山本は恐れたのである。 こうした海軍の官僚的な人事は有能な人材の抜擢を阻害した。 海軍は「人事で負けた」といっても過言ではない。

おまけに空母は真珠湾にいなかったので難を逃れた。 「サラトガ」はアメリカ西海岸にいたから攻撃は無理としても、「レキシントン」はミッドウェイ島に 飛行機を輸送中であり、「エンタープライズ」はハワイとマリアナ諸島の中間にあるウエーキ島に 飛行機を輸送したのち真珠湾に帰る途中であった。 ハルゼー中将が乗艦する「エンタープライズ」は隠密行動をとっていたが、日本軍の後から ハワイに向かっていた。 そして「もし日本の艦船と遭遇したら構わず攻撃せよ」と11月28日には戦闘命令を出していた。 日本側がレーダーで両艦を捕捉することができていたら、当然攻撃すべきで、真珠湾の老朽艦を 撃沈させるよりもはるかに戦果は大きい。

山本は真珠湾攻撃を何の意図があってしたのであろう? ハワイを占領し、アメリカの戦意を喪失させ、講和を結ぶ気にさせるのだという。 そこで奇襲作戦でアメリカに一撃を加えておいて、コロンボ(現・スリランカ)を攻略してイギリス艦隊を 撃滅する。 そして本格的に再度ハワイを取りに行く予定であった。
軍令部ではもともとハワイの奇襲作戦にも反対であった。 なにしろ日本の偵察機の飛行距離は1120キロにすぎないのである。 日本本土から6190キロ、当時の日本の統治領のサイパンからでも3840kmも離れたハワイを 攻略するためには中継地となる地点が必要となる。 ハワイを占領するとなれば兵站をどこにもってゆくのか? ハワイから2200キロ離れたアメリカの海軍基地ミッドウェイ諸島である。 そうすると、東西南北6000平方キロの巨大な中西太平洋をすべて日本軍が制圧しなければならない。 アレキサンダーもジンギスカンもなしえていない、あまりにも無謀な策である。 しかも満洲ではロシアの南下を防ぐための関東軍は釘づけのままで、南支那は重慶の 蒋介石軍に 備える軍隊も必要である。 南洋の島々の領有は英米以外にも、オランダ、スペイン、ポルトガル、ドイツ、オーストラリアなど 多くの国が領土をもつ。これほど、戦場が拡大することは世界を敵に回すに等しい。 戦闘はできても保持は「不可能」である。

参謀本部はそれよりもニューカレドニア、フィージー、サモア諸島に対する攻撃を強め、 オーストラリアとの分断をはかる方が戦略的価値は高く、米国艦隊も本国基地から強く離れているので、 補給困難に陥るだろうとし、米艦隊を誘き出す目的であれば、オーストラリアを叩けばいいと、 ハワイやミッドウェイなどの遠距離の攻撃には難色を示した。 それを押し切ってのハワイ奇襲である。

山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したが、海軍の航空化には賛成しても 空軍の独立には一貫して反対であった。 英国では既に大正7(1918)年には空軍を独立、ドイツでもナチス政府が昭和10(1940)年には 空軍を創設していた。 航空戦力を重視した山本に、空軍独立の必要性と重要性が分からなかったはずはない。 米内光政も空軍を創設することに反対した。 海軍はあくまでも旧式の戦法、つまり、戦艦で海岸線を攻め、その補助に空爆をおこなうことを 変えられなかった。 「戦艦主義」から抜け切れなかったのである。 もしも戦艦大和を造らなければ、その予算で1000機の爆撃機が造れたのである。 太平洋の小島に奮戦する兵たちをどれだけ助けられたかしれない。 海軍が航空機を配下におさめることは、それだけ発言権と予算が増える。 結局、陸軍に対抗する意識が捨てきれないでいた。

ところで、開戦詔勅電報の遅れは日本大使館の大失態である。 対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通は米国時間の12月6日中に日本大使館に到着し、 すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。 最後の14通目は翌7日早朝(ワシントン時間)に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を 7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。

奥村勝蔵書記官がすぐにタイプ清書を始めていたら宣戦布告手交遅れは起こらずに済んだ。 だが奥村はやらなかった。 アメリカ人知人の家にトランプのブリッジをしに行ったからだ。 その日は寺崎書記官を送別する夕食会が2ヶ所で開かれており、大使館の職員たちはそちらに出向いた。 大使館の人数は大使を含めて28人である。 夕食会を終わった2つのグループは電信室関係以外の者は帰宅した。 電信室員は午後10時頃に大使館事務所に戻り、13通目の解読を終えた。 14部はまだ届いていなかったので帰宅した。 その夜、大使館事務所に残ったのは20歳過ぎの館務補助員ただ一人だった。

12月7日(日)午前9時すぎに奥村は出勤して電報がどっさり郵便受けに入っているのを見た。 その中に日米開戦を告げる電文があった。 「7日午後1時を期し米側に(成る可く長官に)貴大使より直接手交あり度し」 時に10時10分、堀内電信官が血相変えて奥村に届けて大さわぎとなった。 13通も清書が残っている。14通目も失敗してやり直し。 ついに野村大使がハル長官に手交できたのは午後2時20分であった。 真珠湾攻撃は12月7日の午後1時30分に始まっており、戦闘の真っ最中であった。

彼らに緊張感が欠けていたのは、野村大使に非協力的な態度を取ってきたからだった。 その理由は野村が予備役海軍大将であって外務省の人間ではないことに加え、日米交渉不成立を 望む軍部に盾突きたくないと思っていた。 日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が「卑怯な欺し討ち」になった事で米国人の世論は 開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。 日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。 しかし、この件で外務省の誰も処分されていない。

大東亜戦争は情報戦でもあった。 アメリカの無線傍受局は、H局ハワイ、SAIL局シアトル、ITEMカリフォルニア州 インペリアル・ビーチ、AE局アラスカ州シトカにあった。 これに加えて太平洋全域には米海軍無線監視局が散在していた。 太平洋における船舶の無線はすべてキャッチできたし、それを無線方位測定により、船の正確な 位置を知ることができた。
日本は戦争準備のため1941年3月、「船舶保護法」を成立させ、徴用されなった民需用船に 適用され、同法にもとづいて、海軍の兵士が乗り込み、船長に命令した。 10月に徴用した商船を、軍事演習に参加させたが、不安な船長はたびたび基地局に無線で 指令を仰いだ。 主に舞鶴海軍基地宛てであったが、これを米軍は傍受し、分析している。 12月の開戦時には、陸軍に519隻、海軍に482隻、民需用に1528隻が割り当てられた。 これらの船から発せられるすべての無線が米国側に傍受されて、船の位置と指令が筒ぬけであったのだ。

ハワイを目指す31艘の艦船は千島列島のエトロフ島ヒトカップ(単冠)湾に集結していた。 山本五十六は11月24日に「11月26日、ヒトカップ湾を出撃し、北太平洋を経由して ハワイ海域に進出し、ハワイのアメリカ艦隊を攻撃せよ」と命令した。 この電報はアメリカ海軍無線監視局に傍受されている。 それまでにも各艦船が機動部隊の待機場所がヒトカップ湾であることを確認する電報を打っていた。
シンガポールのイギリス海軍の無線監視局、ジャワのオランダ監視局では11月18日に 暗号処理されない「HITOKAPPUBAY(単冠湾)」とローマ字で打たれた平文電報を受信していた。 「出港したら無電のキーに封印して厳重に無電封止すること」の命令が全艦船に出されていたが、 この命令をまず破ったのが第一航空艦隊の旗艦「赤城」の南雲である。 3万6千500トンの空母赤城は三重の無線任務を共有していた。 赤城の発信機は赤城艦長の長谷川喜一大佐用の「8ユナ」、南雲中将用に第一航空艦隊司令長官と しての呼び出しは「ヨン7」、第一航空戦隊司令官としては「サソ2」である。 南雲は絶えず赤城の通信設備を使用して麾下部隊に電報を打っていた。 戦艦巡洋艦部隊司令長官の三川軍一中将も彼のハワイ作戦専用の呼び出し符号「ンワ2」を 使用して打電した。 これらは無線監視局CASTに探知されてしまった。 日本海軍は全艦船の呼び出し符号を11月1日に変更したので、南雲も三川も米軍の傍受局は 探知できないと思い込んでいた。 しかし、艦船が一度電波を発信すると米海軍の傍受電信員たちは新しい呼び出し符号を たちまち解読した。 「無線発信パターン識別法」により各艦艇と部隊の呼び出し符号を割り出すことができた。

H局ハワイの太平洋艦隊無線傍受通信解析主任・ホーマー・キスナーは11月27日におこなわれた 日本空母移動についての分析で空母部隊が分離されたことを探知していた。 第三航空戦隊と第四航空戦隊は「南方作戦」に組み入れられており、南雲中将ではなく、 第三艦隊司令官の指揮を受けていることに注目した。 これら2つの部隊は日本から東南アジア方面に移動していると判断した。 キスナーは他の日本軍艦の動きを追跡した。 全艦船が真珠湾を目指していた。
キスナーは65名の部下の無線電信員が傍受した多くの電報を調べ、日本のハワイ侵攻 を察知したのである。 キスナーは日本艦隊の動きを無線方位測定機で追った。 日本艦船が無線機を使用したとき、方位測定機がその発信位置をみつけた。 キスナーは位置情報を日誌に書き込んだ。 キスナーと部下の電信員が11月18日からから20日までまとめた日本海軍の無線放送についての 文書は公表されているが、以後は「ない」という。 つまり、日本艦隊を見失ったというのだ。 このH局の傍受電報記録と電信員の日誌は今なおアメリカの最高機密文書に指定されている。 キスナーは戦争の初期から最後まで、広島・長崎への原爆投下、1945年の最初の平和の打診も探知した。

一方日本海軍の無線電信所は日本国内の佐世保、呉、舞鶴、東京、横須賀、大湊の6ヵ所の 陸上通信所で統制されていた。 極東地域への通信は、台湾の高雄、上海、朝鮮の釜山でおこなわれていた。 ここは佐世保通信所が管理していた。  中部太平洋では父島、サイパン、トラック、ヤルートの4ヵ所に通信所があった。 ここは横須賀通信所が管理していた。

「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
1941年12月2日午後。「予定通り」に戦争を始めるという海軍省からの暗号電文が、 各地に展開する艦隊などに伝えられた。 この電文を発信したのが、船橋市行田にあった海軍無線電信所である。 12月3日、アメリカのシアトルの傍受電信員たちは北太平洋で強力な無線電信が発信されていると 語っている。
それどころか、普通の客船が傍受している。 豪華客船ルアライン号はサンフランシスコを出港し、カリフォルニアの海岸沿いに南下し、 途中ロスアンジェルスのロングビーチで客を乗せ、ハワイと太平洋諸島に向けて航行していた。 11月29日に無線電信が日本の沿岸局から太平洋の北西部に送られているのを傍受した。 「おそらく、小さなアンテナしか持たない船にも連絡が届くよう、電報が繰り返されているのに 我々は気がついた。 この後、12月1日と12月2日も北西からの方向から爆発的な発信状態であった」 この無線技師が傍受したのは通常のJCSと同一の発信機を用いて「ハフ6」で送信された 日本海軍電報で、ハワイ攻撃機動部隊の艦船に送られたものである。
このとき機動部隊は北太平洋を横断しながら東進中であった。 南雲司令官の通信計画では機動部隊内の小型艦艇のために東京放送を繰り返し受信するように 命令していた。 JCSからから送信された無線電報を傍受したものは、東京付近の一ヵ所の陸上無線局 だけから 発信されたことを示していた。

受信した小型の各艦艇は電報を送信しているから、ルアライン号の無線方位測定機により位置を 発見された。 「われわれは1941年12月3日、水曜日、ホノルルに到着したので、海軍情報部に データを報告した」という。

ルーズベルト大統領から「日本軍が先制攻撃してくるまではこちら側から攻撃してはならない」と いう伝達が真珠湾を母港とする全艦に対してなされていた。 こうしてアメリカは日本に先制攻撃させるため、12月7日の真珠湾攻撃を察知しながら 「途中で日本艦隊を見失った」と述べている。 しかし、真珠湾以外ではすべて暗号も無線も解読しているのであるから、広い太平洋の 障害物のない海域で大艦隊を見失うことはありえないのである。

この計略に日本軍も日本人もはまってしまった。 「真珠湾奇襲大成功!」で日本中が歓声をあげているとき、ルーズベルトは戦争の勝利 を確信してほくそえんでいたことであろう。 情報戦は現在も続いている。

(つづく)

(2006 原稿作成)


歴史研究家:岡崎溪子 岡崎溪子ホームページ:http://www12.ocn.ne.jp/~okazaki8/ 「三仙洞探検記」(岡崎溪子著、文芸社) 『おんな独りアフガニスタン決死行』(岡崎溪子著、アルファポリス社)